大人になった私は「カスミと旅がしてぇ・・・」と思った
ポケモンを見るきっかけ
Amazonプライムで『ポケットモンスター』の配信が始まっている。
見れる総話数は“1092”。
1話25分計算で全部見るのに455時間もかかる大ボリュームだ。
私はアニメ『ポケットモンスター』直撃世代なので、昔懐かしくて初代から見始めた。
子どもの頃は「今日はどんなポケモンが出るのか?」というワクワク感、「ロケット団め〜!なんてことを!」とサトシと一緒に怒ったりと、アニメと共に、同時進行で感想を抱いていた。
しかし、大人になった今。
私はアニメを見ていて、
「俺もカスミと一緒に旅がしてぇなぁ・・・」
と思うようになったのだ。
カスミへの眼差しが子どもの頃と全く違う
家で1人、切り株みたいな椅子に座りながらポケモン見ていた私は、自分の中に「カスミと一緒に旅がしてぇ」という感想が出たことに驚いた。
もちろん、「懐かしいなぁ」「この頃のピカチュウは丸々してて可愛いなあ」とも思う。
しかし、それ以上にカスミなのである。
オニスズメに襲われたピカチュウを助けるため、カスミから自転車をひったくるサトシ。私の目は傷付いたピカチュウではなく、「コラーーッ!」と追いかけるカスミに向けられていた。
決して誤解して欲しくない点が1つある。
それは、私がカスミに性的興奮を覚えている訳では無いということ。
では、なぜカスミにこんなにも心が揺り動かされるのか?
恐らく、カスミは決して届かない夢の象徴として存在しているのだろう。
カスミを想い、過去を思うということ。
カスミはフィクション世界の人物だ。
会ったり話すことができない。
サトシたち一行がこちらに提示してくるのは、夢の世界の冒険譚。ポケモンがいる世界の物語である。
カスミはそんな“夢の世界のヒロイン”としてのキャラクターを持っている。
そう。大人になった私が憧れるのは、サトシになることではなく、夢の世界のヒロインであるカスミと一緒に冒険できる環境なのだ。
サトシになってピカチュウと一緒に旅がしたい訳では無い。私はカスミと一緒に旅をすることで、夢を実現出来る環境が欲しかった。
ただ、それは叶わぬ夢であることはとっくに気が付いている。これは、決して戻れない過去への夢想だ。
やっていることは単に「あの頃は良かったなぁ・・・」と過去を振り返っているに過ぎない。対象がポケットモンスターで、ヒロインがカスミだっただけ。
何も考えずに毎日が楽しかったあの頃と、今の状況を比べて悲観的になっているが故の、
「カスミと旅がしてぇなぁ・・・」
である。
子どもは夢を持って生まれ、いつの間にか手放している
子どもの頃はアニメの中のポケモンにばかり目が行っていた。
「ポケモンに夢を感じていた」からに他ならない。
子どもはアメリカがどこにあるのかも知らない、空がなんで青いのかも知らない、どうして朝と夜があるのかも分からない。
子どもは知らないことだらけだ。しかし、未知の世界には「夢」がある。可能性がある。
だからこそ、アニメでしか見たことがないポケモンも「もしかしたら、いつか会えるかも!」と思い、そのポケモンと会える日のために一生懸命アニメを見て、ポケモンのことを分かろうとする。
ヒトカゲのしっぽは雨に濡れないようにしてあげなきゃダメなんだな。ピカチュウのほっぺたを迂闊に触ると危ないのか。
そうやって、まだ見ぬ未知に向かって知識を吸収していくのが子ども。夢に向かって真っ直ぐになれるのが子どもなのだ。
しかし、大人はどうだろう。
もう、ポケモンがこの世に存在しないことは知っている。いや、知っているのではない。“ポケモンはいないものだ”と、自分の中で整理を付けている。
ボクシングジムに行ってもエビワラーはいないし、サーカスに行ってもバリヤードは出演しないと感づいている。
しかし、これはしょうがないことだ。
今まで生きてきた“経験”は、人が社会の中で生きるための知恵となる。失敗しないように生きる術を身につけていく。
その流れの中で、いつか「ポケモンは存在しないんだ」と気付く。子どもが「サンタクロースは両親だった」と悟るのも、その存在に夢を見出せなくなったからだ。
━━現実を知るということ。
人はこのような経験を重ねて大人になり、未知のものに夢を託せなくなっていく。「こんなものだろう」と、自分が知らないものでさえその輪郭を予想し、自分の想像力の中に閉じ込める。
すると、いつの間にか夢を見ることを忘れている。もしくは、夢を見ることを“諦めている”。
では、大人になることは悪いことなのか?
私はそうは思わない。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』に見る大人の夢
「過去へのアンチテーゼ」と聞くと、オトナ帝国の話を思い出す。
大人たちが洗脳されて昭和の世界に戻り、子どものようになる。家事はしないし、仕事にも行かない。自由気ままに遊びに遊ぶ。
今の私の「カスミと一緒に旅がしてぇ」状態は、この洗脳されている大人たちの姿と被る。
子どもに戻りたい。何も考えずにただ一瞬一瞬を生きればいい子どもは、きっと楽なのだろう。
それに比べたら、大人は先のことを予見し、凹み、心が暗くなる事がよくある。言いようのない不安に押し潰されそうな夜がある。
子どもはお化けが出るのが怖くて夜が怖い。
しかし、大人は明日が怖くて夜が怖いのだ。
ただ、そんな大人にも希望の光はある。
物語の後半、大人の代表格であるひろしは、自分の臭い靴下の匂いを嗅いでこれまでの人生を思い返す。
学生時代に彼女が出来たがフラれたこと。会社員時代に営業先に怒られて辛かったこと。みさえと出会って付き合った幸せな時間。そして何より、しんのすけ、ひまわりが生まれてから過ごした家族の時間。
一つ一つの出来事は“今の”自分へと収束していく。
ひろしの靴下が臭いのは、それを履いて毎日営業に回っているからだ。家族のために流した汗が染み込んでいる。毎日のように履いていなければその靴下は臭わない。
もし、ひろしの靴下が臭くなかったら、ひろしは正気を取り戻すことは無かっただろう。これまでに流した汗が、臭いがあったからこそ過去に帰りたがる自分を食い止めることが出来た。
では、どうしてひろしは自分を取り戻すことが出来たのか?
それは、ひろしが“未来への希望”を思い出したからだろう。
しんのすけとひまわりと過ごす何でもない日常、みさえと過ごす穏やかな日々、何が起こるか分からない明日でさえ、ひろしは楽しみに思えるようになった。
ひろしが未来を迎えられるようになったのと同様、私にも希望はある。
明日仕事に行ったら怒られることがほぼ確定している私も、このまま生きていったその先には何らかの希望が残されている。
無論、何も根拠はない。
しかし、根拠がないからこそ明日であり、未来なのだ。
時には「カスミと旅がしてぇ・・・」と過去を振り返るのも良い。過去を振り返ることで得られるものもある。
ひとしきり夢想したあとは、顔を「パンッパン!」と叩いて、明日への希望にすればいい。
そう、全てのものは無駄ではない。
いつか、自分の糧となる大事な経験であり、大切な時間である。
だから私は声を大にして「カスミと旅がしてぇなぁ・・・」と言いたいと思う。
それが未来に繋がるなら、少しの寄り道も悪くは無いだろう。
それでは、聞いてください。
くずで、『全てが僕の力になる』