土手

みんな集合だよ~

夏のノスタルジーと冬の普遍さ

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断固、冬派である。

物心ついた時から夏より冬の方が好きだった気がする。

 

子どもの頃、夏休みになるとおばあちゃん家に行って、虫取りに行ったり花火をしたり、時にはゲームまで買ってもらっちゃったりなんかして楽しく過ごしていた。

逆に、冬は自分の誕生日とクリスマスはあるものの、これと言って「〜をした!」といえるものがない。

家族と一緒にスキーくらいは行ったと思うけれど、おばあちゃん家に行くほどのインパクトはなかったように思う。

 

それでも、気が付いたら冬の方が好きになっていた。

 

「なんでだろう?」と考えてみると、僕は夏の情緒よりも冬の情緒の方が好みなんじゃないかと思った。

 

夏に情緒を見る瞬間。

花火が終わる瞬間、セミの羽化と1週間の命、8月31日、プールで泳いだ後の心地良いだるさ、等に情緒を感じる。

 

冬に情緒を見る瞬間。

晦日に夜更かししても良いこと、お年玉、空気の新鮮さ、マフラー、雪が降ること、こたつで寝ること、等に情緒を感じる。

 

 

まだまだたくさんあると思うけれど、こうして自分の中で浮かんできた情緒を見てみると、夏は「何かの終わり」を感じる時、冬は「続く喜び」を感じているように思う。

 

僕は寂しいのと悲しいのが苦手で、「みんな楽しくなれればいいのに!」と考えている。

 

夏の楽しみはどうしても終わりを予期させるものが多い。花火は打ち上がったら消えてしまう、セミは羽化すると1週間しか生きられない、夏休みは始まったら終わってしまうのだ。

そうすると、どうしても夏に苦手意識を持ってしまう。(だって寂しいじゃん。)

子どもの頃はこんなこと考えたこともなかったけど、根っこの部分では何か感じていたのかもしれない。僕は「始まりと終わりがあるものが悲しいんだ」と。

だから、冬の、ずっと起きててもいい大晦日、いつも変わらない空気の美味しさ、降り続ける雪なんかが好きなんだと思った。

 

そう考えると、夏にノスタルジーを感じる人は多いものの、冬にノスタルジーを感じる人があまりいないのも納得できる。

 

夏には始まりと終わりがあって、だからこそ、その瞬間の思い出が強烈な印象を残して去っていく。始まりと終わりがあるということは、その思い出には連続性がない。唯一無二の思い出となる。その思い出は二度と取り戻すことはできないので、過去を振り返った際に哀愁を感じてしまうんだろう。

 

冬だって、その瞬間の思い出は一つしかないけれど、冬の情緒には連続性があるように思う。

新鮮な空気は冬になればまた味わえる、マフラーも毎シーズン巻ける、サンタが今年もプレゼントをくれた、これらの思い出はいつ感じてもあまり変わらない。それは、自分が始まりと終わりを意識することがないからだ。お年玉をもらって、「でも、使ったら無くなっちゃうんだよな…」と考える人は少ない。「何に使おうかな!ゲーム!?服!?堅実に貯金!?」といった風に、お年玉の使い道を考える、その瞬間に喜びを感じることだろう。冬は別れの季節とも言われるが、別れは新しい出会いの始まりでもある。卒業式も、その後の新しい出会いを感じさせるものであり、「終わり」を意識させるものでは無い。

 

 

繰り返しになるが、夏は始まりと終わりが明確だ。それは、人間の深層心理の中で、意識せずとも刻み込まれているもんだと思う。寂しがり屋の僕としては、そりゃあ夏より冬の方が好きになるもんだよなと苦笑した。

 

 

しかし、これらのことを大人になった今、改めて考え直してみると、今後は夏のことも少しだけ好きになれそうな気がした。